天保4年(1833)〜明治42年(1909)77歳

佐倉商工会議所
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幕末の佐倉藩を重臣として支え、後に評論家・漢学者・劇作家として文学界で活躍した文人
 依田学海は、明治時代の評論家、漢学者、劇作家として幅広い活動を行った人としてやられていますが、文豪森鴎外の漠文の師としても知られています。
 学海は、天保4年(1833)、江戸の佐倉藩邸に生まれました。学海は佐倉藩士として成長し、佐倉藩の江戸留守居役という職につくことになったのは、慶応3年(1867)、35歳のときでした。この年、15代将軍徳川慶喜は太政奉還を行い、政権を朝廷に返しました。翌年、日本は幕府を支えようとする藩と、朝廷を支えようとする藩に分かれて戦いとなりました。この戦いは戊辰戦争といわれますが、依田学海は江戸留守居役として佐倉藩を救うために必死に働きました。
 明治を迎えると世の中は大きく変わりました。佐倉藩もなくなり武士の時代も終わったのです。明治5年(1872)、学海は、東京に移りました。そして、病気を患ったおり森鴎外の父に診てもらったことがきっかけとなって、鴎外に漢文を教えることとなりました。鴎外は、このときのできごとを後に小説の中で描いています。
 明治14年(1881)には、文部省に出仕して漢文の教科書づくりにたずさわりました。そして、明治18年(1885)に文部省をやめてからも、文章を論じたり漢詩をつくったりして文芸の創作活動に励み、坪内逍遥、二葉亭四迷、徳富蘇峰、森鴎外らとの交流がありました。
 学海は、文学界に大きな足跡を残すとともに、安政3年(1856)からの日記、「学海日録」を後生に残し明治42年(1909)、77歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より