元治元年(1864)〜昭和4年(1929)65歳
わずか8歳でアメリカに渡り英語教育に情熱をかたむけた津田塾大学創設者
 津田梅子は、日本初の女子留学生としてアメリカに渡り、その後、日本の女子教育を推進した人物です。
 梅子は、江戸時代の末期、佐倉藩士の子として生まれた幕臣津田仙の二女として江戸で生まれました。明治4年(1871)、8歳のときにヨーロッパの状況視察のために派遣された岩倉具視遣欧使節団の一行とともに日本最初の女子留学生5名の中の最年少としてアメリカに渡りました。アメリカでは、小学校・女学校を卒業しキリスト教にも入信しました。そして、明治15年(1882)、アメリカの進んだ教育や文化を学んで日本に帰国しました。その後、伊藤博文や日本の女子教育に力を尽くした下田歌子などとも親しく接し、下田歌子の華族女学校に勤めました。しかし、上流階級の子女だけしか学べないような女子教育に疑問を感じた梅子は、明治22年(1889)、再度アメリカに渡りました。帰国後、東京麹町にたった2部屋の家を借りて「女子英学塾」を開き、報酬もなしに一般の女子の教育に当たりました。これが、現在の「津田塾大学」の基となったのです。
 梅子は、自ら教壇に立ち、英語教育に尽力し個性を尊重した教育にまい進しました。梅子の教育は、日本女性の地位を向上させる大きな役割を果たしました。そして、その功績を国の内外に認められ、大正4年(1915)には、勲六等宝冠章を授与されました。そして梅子は昭和4年(1929)、65歳の生涯を静かに閉じました。
 梅子の墓は、津田塾大学の構内にあります。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より