明治8年(1875)〜昭和21年(1946)72歳

佐倉商工会議所
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日本の工芸にヨーロッパの考え方を取り入れ、近代工芸の発展に努めた工芸家
 津田信夫は、明治以降の日本の工芸界のリーダーとして活躍し、香取秀真と並ぶ金工の先駆者として日本の工芸界に大きな功績を残しました。
 信夫は、明治8年(1875)、元佐倉藩医の子として生まれました。そして、成長するとこころざしを立て明治28年(1895)、東京美術学校鋳金科に入学しました。明治33年(1900)、同校を卒業した信夫は、2年後には助教授になり浅草公園や日比谷公園の噴水をはじめ西村勝三の銅像などの鋳造を担当しました。特に、明治43年(1910)、東京の「日本橋」の装飾の鋳造は、今に残る信夫の代表作の一 つといえます。信夫は、金工作家として、作品の製作にも精魂をかたわけて取り組みました。その努力が認められて、大正8年(1919)には、東京美術学校の教授となり、大正11年(1922)には、文部省より命今を受けてヨーロッパに金工の研究をするために留学することになりました。イタリア、フランス、イギリス、ギリシャなどを回った信夫は、工芸に対する新しい考え方を知り、それを日本に伝えるために努力を続けました。それと同時に日本とヨーロッパの文化交流にも尽くし、昭和2年(1927)、フランス政府からオフィシャー・デ・アカデミー勲章が贈られました。また、工芸品を美術品として認めてもらえるよう各方面に積極的に働きかけていきました。
 その後も信夫は帝国美術院の会員として日本工芸界のために活躍し、昭和21年(1946)、金工作家として多くの功績を残し、72歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より