天保8年(1837)〜明治41年(1908)72歳

佐倉商工会議所
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近代農業の普及に努めるとともに、キリスト教精神による教育を行った教育者
 私たちは、毎日野菜を食べて暮らしています。実は、この野菜の多くは、明治以降日本に入ってきた外国が原産
のものなのです。この西洋野菜を日本に広めた人物が津田仙なのです。
 仙は、天保8年(1837)、佐倉藩士の子として生まれました。子どものころより武芸に親しみ、特に剣術は立身流を学び達人の域にまで達しました。嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが来航すると、仙は、実際にアメリカ海軍の力を知り西洋をもっと知ろうと学問に励みました。その結果、慶応3年(1867)、幕府の使節団の通訳としてアメリカに渡りました。31歳の時です。キリスト教の影響を受けたのもこのころです。アメリカの影響を強く受けて帰国した仙は、明治にはいると日本で初めての外国人向けのホテルに勤めることになりました。そこで、西洋野菜の必要性に気づいた仙は、苦労を重ねて種から野菜の栽培に取りかかり、この当時大変珍しい、アスパラガスやイチゴの栽培にも成功しました。仙は、栽培を行うだけでなく農業教育にも力を入れ自宅に学農社農学校を設立し、キリスト教精神を取り入れた教育を行いました。仙は、キリスト教徒としてさらに教育者として、多方面にわたり活躍しました。青山学院の設立、現在の筑波大学付属盲学校の設立にも尽力するとともに、田中正造とともに足尾銅山鉱毒問題にも取り組みました。
 仙は、「人は皆平等」の考えに立ち、多くの人々と温かく接し明治41年(1908)、72歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より