文政5年(1822)〜明治11年(1878)57歳

佐倉商工会議所
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堀田正睦から招かれて西洋学を教え、日本の近代化に貢献した多くの人々を育てた英学者
 塚律蔵は蘭学を学び、さらにいち早く英学を学んだ学者です。その塾からは、多くの著名な日本近代化の功労者を出しました。
 律蔵は、文政5年(1822)、周防国(今の山ロ県)に、村医者の子として生まれました。17歳の時に長崎で西洋兵学の大家であった高島秋帆について学びました。その後律蔵は、蘭学を学ぶために江戸と長崎で勉学に励みました。その律蔵が佐倉藩に仕えるようになったのは、嘉永四年(1851)のことでした。佐倉藩ではすでに蘭学教育を始めており、西洋学の先生として律蔵を招いたのです。
 嘉永6年(1853)、佐倉藩に仕えるかたわら江戸の本郷元町に蘭学塾「又新堂」を開きました。この塾には、西村茂樹、西 周、神田孝平、木戸孝允など明治を代表する人物たちが学びました。この間にも律蔵は英学を独学で学び、安政3年(1856)には、選ばれて幕府の蕃書調所に勤務し洋学を教えました。律蔵は、これまでにも多くの蘭書を翻訳していましたが、英語の入門書でもある『イギリス文典』も西 周とともに翻訳し、英語を学ぶ人たちを助けました。このことは、蘭学から英学へ移行するきっかけともなりました。明治になると外務省に勤めた律蔵は、ロシアのウラジオストックに貿易事務官(領事)として赴任しました。これは、律蔵の今までの功績に報いるものではありませんでしたが、職務を誠実に務め、ロシアの事情をくわしく報告しています。
 そして、明治11年(1878)、病にかかった律蔵は、日本へ帰国途上の船上で57歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より