天保4年(1833)〜明治35(1902)70歳
日本の暦を太陰太陽暦から太陽暦に変えるために尽力した数学者
 高橋卯は、天保4年(1833)佐倉藩士高橋弥七の子として佐倉に生まれました。初めは卯之助と称していましたが、後に卯といいました。
 卯は、数学を修め、明治になって文部省に勤めました。
 明治になるまでの日本は、暦には「太陰太陽暦」を採用していました。太陰とは月のことで、月が地球の周囲を回ることにより満ち欠けするので、その一周期を「ひと月」とし、12ヵ月を1年としたのが太陰太陽暦です。ところが、この方法では1年が季節をひと回りするよりも平均11日短いので、約3年に1回、閏月(この年は13月とする)を置いて調整する必要がありました。これに対し西洋では、私たちが現在使っている「太陽暦」を採用していました。この暦は、地球が太陽の周囲をひと回りするのを1年としていました。太陽暦にも閏年がありますが、その調整は、12ヵ月の中で処理されます。つまり、太陰太陽暦と太陽暦では、3年に1度、1ヵ月のずれが生じてしまうのです。
 鎖国をしていた日本であるならば不自由ではありませんが、明治となり外国人とつき合うようになると、暦のずれは大きな問題となりました。そこで、暦を西洋にならって太陽暦に変えることにしたのです。
 明治3年(1870)、政府は大学に天文暦道局を置き、和算家の内田五観に新しい暦作りを命じました。この五観の下、編暦を取りまとめたのが卯でした。卯たちは準備を進め、明治6年(1873)12月3日をもって、日本の暦は太陽暦となりました。今日、私たちが使っている暦は、卯らの努力によるものなのです。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より