文政10年(1827)〜明治15年(1882)56歳

佐倉商工会議所
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「順天堂」の後を継ぎ,多くの塾生を世に送るとともに,日本の近代医学を発展させた医学者
 尚中は,佐藤泰然が開いた町医者を兼ねた医学塾「順天堂」が生んだ逸材です。現在,順天堂大学という学校がありますが,この基礎を作ったのが尚中でした。泰然が近代医学の基礎をつくったとしたら,尚中は近代医学を育てた人と言うことができます。
尚中は,文政10年(1827)下総国小見川(今の香取郡小見川町)で小見川藩医師の子として生まれました。幼いころより医者をこころざした尚中は,少年のころに江戸へ出て西洋医学を学び始めました。そして,縁あって天保13年(1842)江戸の佐藤泰然の塾に入門することになったのです。江戸から佐倉へと泰然が移り住む中で,尚中もその弟子として泰然を助け「順天堂」を盛り立てていったのです。そして尚中が27歳になった嘉永6年(1853)泰然の養子となり,名実ともに「順天堂」の後継者となりました。その後,尚中は,念願の長崎留学を果たしオランダ人医師ポンペからヨーロッパの最新医学を学び佐倉に戻りました。佐倉に戻った尚中の評判は日ごとに高まり,順天堂には日本全国から塾生が集まるようになりました。
 徳川幕府が倒れると,明治2年(1869),明治政府の命令により大学東校に勤めることになりました。そこで大学大博士という地位につき日本の近代医学教育をリードする立場になりました。そして,明治5年(1872)すべての役職を辞任し,自分の理想を実現するため東京に「順天堂」を設立しました。そして,東京の順天堂の発展と日本の医学の発展を確認したかのように,明治15年(1882),56歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より