弘化2年(1845)〜大正10年(1921)77歳

佐倉商工会議所
佐倉NAVIで読む
佐藤尚中の養子となり、ドイツ医学を学んで東洋人として初めてドクトルとなり、現代医術・医療の基礎を確立し、順天堂医院の拡大、発展に尽くした功労者
 佐藤進は、明治時代にドイツの最新医学を学び、日本の医学の発展に大きな功績を残した人物です。
 進は、弘化2年(1845)、今の茨城県常陸太田市に造り酒屋の長男として生まれました。幼いころより秀でた才能を持った進は、文久2年(1862)、志を持って順天堂の門をたたきました。慶応2年(1866)には、それまでの努力とその才能を佐藤尚中に見いだされ養子となりました。佐藤家では、優れた人物を見込んで養子とし日本医学の発展に尽くそうという気風があったのです。幕府が倒れ明治の代になった明治2年(1869)、25歳になった進は、養父尚中の許しを得てドイツ留学を果たしました。ドイツに渡った進は、ベルリン大学に入学し専門的な医学を学び、東洋人として初めてのドクトルの学位を得ました。帰国した進は、尚中とともに順天堂の経営にあたりました。明治10年(1877)には、西南戦争が起こり、陸軍軍医として多くの負傷兵の治療にあたりました。明治17年(1884)には、東京大学に勤務し、4年後には、医学博士の学位を受けました。進は、陸軍軍医総監の地位にまで昇り、日本の医学の第一人者として活躍しました。日清戦争の後の講和条約に際して、日本で暴漢に襲われて負傷した清国全権大使李鴻章の治療にあたったのもこのころです。
尚中のあとを継いで順天堂医院院長となり、日本の近代医学の確立に尽力した進は、大正10(1921)年、妻であった佐藤志津の後を追うように東京駒込の自宅で静かに77歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より