嘉永4年(1851)〜大正8年(1919)69歳

佐倉商工会議所
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新しい時代の日本を代表する女性として女子教育に情熱をかたむけた教育者
 志津は、日本の近代における女子教育の先駆者としてその名を後生に残した人物です。それまでの女性の地位は大変低く、女性が学問をするということは、それだけで大変な苦労があったのです。
志津は、嘉永4年(1851)、佐藤尚中の子として生まれました。尚中は、順天堂の後継者となる人物ですから、学問にも造けいが深く志津にも当時の女性として恥ずかしくない教育を受けさせていました。志津は、漢学を修めるとともに14歳の時には、藩主堀田正睦の息女松姫のお相手として御殿に上がり様々な教養を身につけていきました。
そして、17歳の時に後に順天堂の後継者となる佐藤進と結婚しました。志津が女子教育に活躍するのは、30歳を過ぎてからのことでした。明治16年(1883)、外国との交渉をスムーズに行うために、日比谷に鹿鳴館が建てられました。ここに招かれた志津の気品ある立ち振る舞いが多くの人々の目に映りました。日本の女性が社交の表舞台に立った最初でした。志津はこの後、女性の社会参加を積極的に進めるようになり、多くの有能な女性たちに援助を惜しみませんでした。そして、明治33年(1900)に設立された私立女子美術学校の熱心な依頼を受け、校主や校長になると周囲の反対を押し切って女子教育にまい進していったのです。
そして、大正4年(1915)女子教育功労者として、今までの功績が認められ勲六等宝冠章が授与されました。志津の女子教育にかけた情熱は、今も女子美術大学に受け継がれています。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より