文政8年(1825)〜明治39年(1906)82歳
佐倉藩の重職として幕末期に活躍し、明治になると堀田家の家令として、堀田家や地域のために献身的に努力した功労者
 佐治家は、堀田正盛(三代将軍家光の側近で最後は大老となった)以来、代々堀田家の家臣として召し抱えられたりっぱな家柄です。済の仕えた佐倉藩主正睦は、安政2年(1855)老中に再任され、今でいう首相兼外相となり、藩士の若手の中から私的な秘書として、西村茂樹や済らを抜擢し、極秘外交文書の取扱いを命じました。済は、後に年寄役という重職にも任命され、維新後の明治2年(1869)廃藩置県の時には小参事を命ぜられました。そして、維新の混乱の中で、藩士藩民の生活の安定のために努力しました。
 明治4年(1871)佐倉藩は、佐倉県となりましたが、済は堀田家家令(総取締りの役目)となり、懸命に勤めました。藩校「佐倉学問所」は、寛政4年(1792)藩主正順により創立され、「温故堂」「成徳書院」「鹿山精舎」「佐倉集成学校」「佐倉尋常中学校」などと名前を変えながらも、200余年にわたる伝統に輝きながら、今の「千葉県立佐倉高等学校」にみごとに引き継がれていますが、この長年月の歩みには、乗り越えなければならない多くの困難がありました。明治になっても常に堀田家の援助が欠かせませんでしたが、特に明治36年(1903)廃校の危機に際し、済は老躯にむち打ち、東奔西走しての努力の末、堀田家の財政面、施設設備面での全面的な協力によってその難をまぬがれることができました。
この難事業の成功を見届けた後、間もなく済は永眠しました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より