天保6年(1835)〜明治33年(1900)66歳

佐倉商工会議所
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西洋砲術を学び、陸軍砲兵の基礎を築いた軍人
 大築尚志は、佐倉藩士の長男として天保6年(1835)、佐倉城内の屋敷で生まれました。尚志は、成徳書院で学問を学び、のちに選ばれて西洋砲術を学びました。このことは、後に砲術家として歩む尚志のきっかけとなりました。
 嘉永6年(1853)、アメリカのペリーが黒船を率いて浦賀に来航して以来、日本は、国防の重要性を認識しました。佐倉藩でも西洋学の重要性を感じ、尚志らを手塚律蔵の元に派遣し蘭学や英字を学ばせました。人より先んじて学問を学んだ尚志は、佐倉藩士から幕府に採用され幕府陸軍の近代化に貢献しました。しかし、幕府は戊辰戦争に敗れついに明治の新しい時代を迎えることとなりました。尚志は、静岡に移された徳川家に忠節を尽くしましたが、廃藩置県によりすべての藩がなくなると東京に戻り新政府に仕えました。
 明治6年(1873)、陸軍大佐に任じられた尚志は、陸軍砲兵の整備に努めました。「富国強兵」政策のもと、日本を一日も早く世界の強国と肩を並べる必要があった日本にとって尚志らの学んだ進んだ学問は大きな力となりました。明治27年(1894)、日清戦争が始まるとその能力をかわれ、臨時東京湾守備隊司今官となり日本の防備にあたり
ました。明治32年(1899)には、今までの功績により陸軍中将に任じられ、それを最後に尚志は現役を引退しました。
 尚志は、翌年亡くなりますが、それから10年後、小石川の東京砲兵工廠の敷地に銅像が建てられ、尚志の功績が多くの人に讃えられました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より