嘉永3年(1850)〜明治17年(1884)35歳

佐倉商工会議所
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日本最初のロシア留学生となり、ロシア交渉において通訳をつとめた人物
 大築尚正は、尚志の弟として生まれました。
 尚志とは、15歳離れています。尚正は、医学を学ぶかたわら兄たちについて洋学を勉強しました。元治元年(1864)には、幕府の教育機関である開成所のドイツ学に入門し、ドイツ学を学びました。 元治2年(1865)には、幕府が派遣する日本最初のロシア留学生に選ばれました。尚正十五歳のときです。約10ヵ月の長い旅の後、ロシアの首都「ペテルブルグ」(現在のサンクトぺテルブルグ)に到着したのは、慶応2年(1866)2月のことでした。
 しかし、留学中に幕府が倒れ、こころざしなかばで帰国した尚正は、新政府に勤め北海道の開拓使としてロシア語を生かした政府間の交渉文書の通訳を担当しました。実務担当者として、尚正の功績は樺太千島交換条約の締結に表れます。しかし、これから大きな活躍ができるという時、病を得て明治17年(1884)、35歳という若さで亡くなりました。早く亡くすには大変惜しい人物でした。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より