天保13年(1842)〜明治19年(1886)45歳

佐倉商工会議所
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幕府の英語伝習生として英語を学び、後に法律家として明治政府に貢献した人物
 大築節蔵は、大築尚志の弟です。兄尚志は軍人への道を進みますが、節蔵は司法の道を進みました。お互いに道は違っても、新しい日本の国造りに力を注ぎました。
 尚志と節蔵は、7っ違いの兄弟ですが、兄と同様に西洋学をこころざし、安政3年(1856)、14歳になると兄と同じく佐倉藩でも教えていた洋学者、手塚律蔵に入門し洋学を学び、のちに、手塚律蔵の養子となりました。洋学を学ぶ者の少なかった時代、節蔵は、万延元年(1860)、選ばれて幕府の英語伝習生となりました。こは、英語の通訳の養成を目的としたものでイギリス人から直接英語の教授を受けられるものでした。そして、その英語力を買われ、「彼里(ペリー)日本紀行」の翻訳を工藤岩次とともに手がけました。この英書の翻訳は、わが国最初のものと言われています。
 明治維新後は、神奈川県に採用され警察制度の翻訳を行ったり、法律の翻訳に携わったりしました。そして、司法界で判事として活躍している最中、45歳で亡くなりました。もう少し生きて日本のために働いてほしかった人物でした。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より