文政11年(1828)〜明治35年(1902)75歳

佐倉商工会議所
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重臣として幕末期に活躍し、後に「日本弘道会」をおこし、日本の道徳教育の道しるべを示した思想家
 明治維新を境にして日本は急激な西洋化への変化を見せました。それは、建物や道路などの環境の変化だけではなく思想にまで影響を及ぼしました。それを心配した茂樹は、日本の道徳教育を広めるため「日本弘道会」を設立し全国各地を講演して歩いたのです。この「日本弘道会」は、今も全国規模で活動しています。
 茂樹は、江戸で生まれ、10歳の時から、佐倉藩の成徳書院で学び、後に佐久間象山について西洋砲術も学びました。茂樹の学識は、だれもが認めるところとなり、嘉永6年(1853)、佐倉藩の支藩である佐野藩の政治の一切を任されるようになりました。堀田正睦が老中首座として、アメリカとの外交交渉を行う際にも正睦のかたわらで交渉の補佐をしたのです。
 明治になると、佐倉藩大参事に任じられ、佐倉藩の将来を左右する仕事をまかされました。茂樹は、他の重役たちとも相談し、士族授産のため佐倉に製茶業、製靴業を興しました。さらに、文部省に勤め、今の道徳に当たる「修身」の教科書の編集にも当たりました。また、「明六社」や「洋々社」などを興し、日本のこれからの考え方を明らかにしていきました。明治8年(1875)には、天皇に学問を教える侍講にも選ばれ、洋学を天皇や皇族たちに教え、皇室からも厚い信頼を得ていました。
 茂樹は、明治の新しい時代に「日本人としていかに生きたらよいのか」、「西洋文明をどう取り入れたらよいのか」という道しるべを示し、75歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より