文政12年(1829)〜明治38年(1905)77歳

佐倉商工会議所
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佐倉藩の重臣として活躍し、後に旧藩士の授産のために佐倉に産業をおこした功労者
 明治になり藩がなくなり職を失った佐倉藩士に仕事を与えるため、倉次亨らが中心となって製茶業を興しました。このお茶は亨らの努力によって全国にも知られるようになり、亨は、後に藍綬褒章や紅白綬有功章受賞の栄誉に輝きました。
 亨は、文政12年(1829)、佐倉藩士の子として生まれました。そして、父の隠居にともない25歳で倉次家を相続し、元治元年(1864)、亨は藩の重役である年寄役につきました。亨は、水戸の天狗党の乱に佐倉藩の総指揮官として兵を率いこれを鎮圧しました。慶応4年(1868)、戊辰戦争が起こると亨は堀田家と徳川家を守るため必死になって働きました。
 明治になると、武士も刀を捨てて働かなければならなくなりました。亨は、仲間を集め明治4年(1871)、「同協社」という会社を作り土地を開墾しお茶の種をまいたのです。これが亨たちが作った「佐倉茶」の始まりです。亨は、同協社の社長として製茶事業に専念し、様々な困難を乗り越えついにこの「佐倉茶」は、海外にまで輸出されるようになりました。
 亨は、職を失った佐倉藩士の将来を思い、佐倉藩の重臣だった者としてその責任をきちんと果たしました。それは、佐倉の発展のためだけでなく日本の近代産業発展のために大きな役割をになうことになりました。
 亨は、新しい時代への橋渡しという大きな功績を残し明治38年(1905)、77歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より