天保12年(1841)〜大正4年(1915)75歳
若いころより数学に秀で、世に出てからは数学測量に取り組むとともに数学教育の普及に努力した数学者
 光照は、出羽国村山郡中桜田村の農家に、鏡彦兵衛の三男として生まれました。中桜田村は、この当時には佐倉藩堀田家の領地でした。光照のはじめの名前は久八でしたが、慶応年間に一造と改め、明治に入ると光照と改めました。
光照は、幼いころから数学にたけていました。安政4年(1857)になると、光照は、数学を修業するため、故郷を離れて江戸に出ました。光照は、叔父渡辺忠蔵の紹介で、佐倉藩主堀田正睦の重臣である倉次享の従者となりました。これを縁として、江戸で高橋卯に数学を学びました。この後には、内田五観にも師事しています。光照が佐倉藩主堀田正倫の家臣として召し抱えられたのは、文久2年(1862)11月のことです。倉次亨の斡旋で江戸詰となり、麻布日ヶ窪の屋敷に居住しました。光照は、慶応4年(1868)からは佐倉居住となり佐倉城外の宮小路南町に居住しました。明治3年(1870)12月には、佐倉藩の藩校成徳館(成徳書院の改称)の数学准員長となりました。この月、光照は、政府から印旛沼の周囲測量を行うように命じられました。光照は、この仕事を一ヵ月以内に終わらせました。翌4年2月からは、藩校博文堂の准授読、同年8月から数学副数となりました。そして、10月になると、光照は政府の海軍兵学寮に出仕し、数学測量掛を命じられました。この公務のかたわら、光照は東京宮本町に数学測量術の私塾を開きました。光照は、明治19年(1886)5月に陸軍戸山学校を最後に退職しましたが、以後、数学を通信教育する算学通信社を設立し、後進の教育にあたり、大正4年(1915)12月20日、75歳で亡くなりました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より