安政2年(1855)〜昭和4年(1929)75歳
印旛沼の治水事業に努力し、その漁業振興に尽くした功労者
 勝太郎は、佐倉の萩山新田に生まれました。
 江戸時代の初め、幕府が低湿地の多い江戸を水害から守るため、利根川の流れを江戸湾から銚子を川口とする太平洋に変えてから、印旛沼周辺は、風水害と凶作に悩まされ続けました。幕府は、この問題を解決しようと何度も工事を試みましたが、難工事の末、結局は失敗してしまいました。
 明治の中期、勝太郎は、織田完之(『印旛沼経緯記』の著者)ら、大明会の印旛沼開削計画に賛成し、有志と図って世論の喚起に努めましたが、良い結果を生むことはできませんでした。村のため、人のため、世のためと言っては、いつも自分のことを犠牲にして郷土に尽くす姿に、村人はその後ろ姿を拝むことが多かったと言われています。
曽祖父の重郎兵衛が天保の印旛沼工事のときに「天保二七の開削音頭」という民謡を人々の激励のために作ったといわれ、後々の勝太郎も自ら三味線を弾き、息子の尺八でろうろうと歌ったそうです。
 沼の漁法の研究改善、魚の保護増殖に努力し、印旛沼利根水産組合長(組合員463名)も勤め、生涯を印旛沼開発に捧げました。
 治水、利水、干拓を目的とした印旛沼の開発事業は、太平洋戦争後、国家の大事業として計画実行され、20数年の年月をかけ、昭和44年に完成し、江戸時代以来の難問が解決されました。印旛沼周辺の人々は、何百年もの間の水害の苦しみから解放されたのです。これも、岩井勝太郎のような郷土を愛する人々の努力があったからです。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より