文化7年(1810)〜元治元年(1864)55歳

佐倉商工会議所
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佐倉藩に西洋の学問を奨励し、幕末期の老中として、動乱の日本を開国に導いた佐倉藩主
 江戸時代の終わりころ、鎖国をしていた日本の港を開かせようと、ロシアやイギリス、フランス、アメリカなどの国々の船が日本の近海にたびたび現れ、幕府に国を開くよう要求してくるようになりました。この時、佐倉藩主で幕府の老中の首座(老中の筆頭)であった堀田正睦は、いろいろな意見が戦わされる中で、日本を開国へと導くために大変な苦労をしました。
 正睦は、文化7年(1810)、佐倉藩主正時の子として生まれましたが、徳川家譜代の大名の子として、子どものころよりぜいたくをすることもなく質素な生活を送る中で学問を学び、西洋の様子についても多くを知るようになりました。佐倉藩主になってからも藩内に西洋の学問を奨励し、佐藤泰然なども江戸から招きました。
 正睦は、西洋の学問をとおして鎖国を続ける日本の将来に大きな不安を感じていたのでしょう。幕府の老中に就任後は、国を開くことを朝廷や各大名たちに説き、日本を外国から守るために必死になって働きました。しかし、日本中で外国人を追い払えと言う「攘夷論」が盛んになる中で、正睦の考えは正しく理解されず、志なかばで老中をやめることになりました。安政6年(1859)、隠居を命じられた正睦は、家を子の正倫にゆずり日本の行く末を案じながら55歳の生涯を閉じました。
 正睦は、「明治維新」の土台を築く役割を果たしたといえます。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より