嘉永4年(1851)〜明治44年(1911)61歳

佐倉商工会議所
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新しい時代の佐倉地方の産業や教育の発展に尽くした、最後の佐倉藩主
 正倫は、佐倉藩最後の藩主として、少年期よりその重責をにない、佐倉の近代化に力を尽くし、最後まで佐倉を愛した殿様でした。
 正倫は、嘉永4年(1851)、江戸の佐倉藩邸で生まれました。幼いころより学問を好み、英語にも熱心に取り組みました。正倫は、正睦の四男でしたが兄たちが早く亡くなったため、正睦の隠居にともない佐倉藩主を継ぎました。正倫が藩主となったころは、日本も激動の時代を迎えていました。正倫は、佐倉藩の重臣である平野重久や倉次亨などの意見もよく聞きこの難局を乗り切っていきました。明治になると正倫は、華族に列せられ政府の命令により東京に住むことになりました。そこで、天皇のお側近くに仕えることになりました。正倫は、幕末の時の活躍により明治天皇から大きな信頼を得ていたのです。
明治23年(1890)、正倫は、故郷である佐倉にもどり佐倉地方の産業や教育の発展のために尽くしました。特に佐倉中学校(現在の佐倉高等学校)の維持発展に力を尽くし、佐倉藩校「成徳書院」の伝統を佐倉中学校に残しました。現在、その功績を讃え佐倉高校の正門を入ったところに正倫の胸像が建てられています。正倫は、明治44年(1911)、ついに病に倒れ61歳の苦労の人生を閉じました。幼くして家を継ぎ、郷土の佐倉のために一身をささげた生涯でした。
 明治天皇は、正倫の功績を讃え特に従二位という高い位と勲三等端宝章を贈り生前の功績に報いました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より