慶長13年(1608)〜慶安4年(1651)44歳
徳川三代将軍家光に側近として仕え、徳川幕府の基礎づくりに活躍するとともに、家光に殉じた佐倉藩主
 正盛は、慶長13年(1608)堀田正吉を父に、稲葉正成の娘を母に江戸で生まれました。元和6年(1620)13歳となった正盛は、将軍徳川秀忠の次男徳川家光に近習として仕えることになりました。ついで、寛永5年 (1628)になると、それまで5700石の土地を与えられていた正盛は、1万石に加増されて大名となったのです。
小姓組番頭の正盛は、寛永10年(1633)3月に松平信綱・阿部忠秋・三浦正次・阿部重次・太田資宗とともに六人衆となり、また五月からは阿部忠秋とともに老中並となりました。
 この正盛がはじめて城主となったのは、寛永12年(1635)3月のことです。その城は、武蔵国の川越城で、その領地は3万5000石でした。また、この年の10月には、松平信綱・阿部忠秋とともに年寄(後の老中)となりました。寛永15年(1638)3月になると、正盛は信濃国の松本藩主に移され、ここで10万石を領有しました。寛永18年(1641)9月には、「従四位下侍従堀田加賀守紀朝臣正盛」と刻んだ石灯籠を日光東照宮の徳川家康の廟前に寄進しています。
 正盛が佐倉藩主に移されたのは、寛永19年(1642)7月のことです。その領地は、11万石でした。正盛は、幕府の中心で年寄として活躍していましたが、慶安四年(1651)4月20日に将軍徳川家光が亡くなりました。この時正盛は同じく年寄にあった阿部重次、側用人の内田正信(小見川藩主)、側衆の三枝守恵、納戸衆の奥山茂左衛門とともに家光に殉死しました。まだ44歳という年齢でした。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より