寛延2年(1749)〜文化2年(1805)57歳
佐倉藩に藩校の基礎となる「佐倉学問所」を開き、佐倉藩に学問を奨励した好学の藩主
 正順は、寛延2年(1749)9月29日に佐倉藩主堀田正亮の五男に生まれました。正順には兄正泰がいましたが、正泰は体が弱かったので、宝暦3年(1753)10月に正順が嫡子と決まりました。そして、宝暦11年(1761)3月になると正順は、佐倉11万石の家督を継ぎました。
 藩主となった正順は、安永3年(1774)2月から奏者番となりましたが、天明3年(1783)7月には寺社奉行となり、ついで天明7年(1787)4月から大坂城代となりました。この当時、老中首座にあった松平定信は、正順を京都所司代に移しました。それは、正順が才略にたけていたためでした。寛政4年(1792)8月のことです。正順が京都所司代の職を許されたのは、寛政10年(1798)11月のことですから、大坂城代として5年以上を大坂に居住し、京都所司代として6年以上を京都に居住したのでした。
学問を好み、武道にも精励していた正順は、寛政4年(1792)に佐倉学問所を開きました。この学問所は、藩主堀田正愛の時代の文化年間に温故堂と改称され、藩主堀田正睦の時代の天保7年(1836)になると成徳書院として拡充改組されました。成徳書院の名残りは、現在の県立佐倉高等学校に伝えられています。正順が学問の興隆を目指し、佐倉に藩校の基礎を築いたことから、後に西洋学が芽生えるようになったのです。
 正順は、文化2年(1805)7月5日に57歳で亡くなりましたが、大坂・京都での生活は、佐倉に上方の文化を取り入れる良いきっかけとなりました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より