文化11年(1814)〜明治16年(1883)70歳

佐倉商工会議所
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幕末の動乱期に佐倉藩を支え、新しい時代へと導いた重臣
平野重久は、幕末から明治にかけての難しい時代に佐倉藩を支え、新しい時代に導いた佐倉の大功労者です。
 重久は、文化11年(1814)、佐倉藩の重臣の子として生まれました。11歳の時に藩校である「温故堂」で学びました。そこで優秀な成績を収めた重久は、天保7年(1836)、江戸の昌平黌に入学し学問を深めたのです。学問を終え佐倉に戻った重久は、温故堂がさらに充実し発展した「成徳書院」に勤め、教授から総裁の地位へと進みました。
嘉永5年(1852)には、39歳の若さで年寄役という家老に次ぐ地位に進み、佐倉藩を動かす立場となりました。
そして、このころは、日本が国を開くかどうかの大変重要な難しい時代でもありました。重久は、広い視野に立ち、「開国をするとともに世界の国々の進んだ知識や技能を学ぶべきだ」という考えを持って行動しました。
その間にも、幕末の争乱は佐倉にも影響を及ぼしました。慶応4年(1868)には、鳥羽伏見の戦いをきっかけとして戊辰戦争が起こりました。佐倉藩もいやおうもなくこの旧幕府軍と官軍との争いに巻き込まれていきました。重久は、この嵐のような時代を、「天皇のために忠義を尽くすことが佐倉藩のためであり、徳川家の恩に報いることである」との信念に基づいて佐倉藩を導きました。そして、ついに佐倉は戦乱に巻き込まれることなく平和のうちに明治を迎えることができたのです。そして、版籍奉還・廃藩置県による佐倉藩の最後を見届け、明治16年(1883)、その生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より