嘉永3年(1850)〜大正2年(1913)64歳

佐倉商工会議所
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外交官として日英同盟を結び日露戦争の勝利に貢献した政治家
 日本の近代化が成功した最も重要なポイントが「日英同盟」であったと言われています。そして、その直接の外交交渉に当たったのが当時イギリス公使であった林董だったのです。董は、嘉永3年(1850)、佐藤泰然の子として生まれました。
 その後、董は幕府御典医林洞海の養子となり、13歳の時には、アメリカの宣教師ヘボンの塾に通い英語を学びました。このころ幕府は、ヨーロッパの進んだ学問を取り入れるために留学生をヨーロッパ各地に派遣していました。董は、17歳の時自ら志願して試験を受け留学生としてイギリスに派遣されました。董は、イギリスで勉学に励みましたが、戊辰戦争のために勉学を途中で断念しなければならなくなりました。急いで帰国した董は、義理の兄弟である榎本武揚の考えに同調し、幕府海軍とともに箱館五稜郭で戦い、官軍に捕らえられました。許された後、董は岩倉使節団に加わりアメリカに渡ると外国の多くの事物を見聞するとともに、条約改正交渉を間近に見て、外国との交渉の難しさを痛感したのでした。帰国後は、香川県知事や兵庫県知事などを歴任後、明治24年(1891)に外務次官に就任しました。この外務次官就任後、日英通商航海条約の調印、日清戦争、日清講和条約調印、三国干渉と日本にとって大きな外交問題を次々と処理し、明治35年(1902)、日英同盟協約調印へと日本の舵を取っていきました。そして、その後も日露戦争などの大きな動乱期を乗り越え、明治39年(1906)には外務大臣を勤め、大正2年(1913)波乱に満ちた64歳の生涯を閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より