安政元年(1845)〜大正9年(1920)67歳

佐倉商工会議所
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明治・大正時代政治の舞台で医学界の発展につくし、結核治療を普及した医師
 浜野昇は、日本の医学の発展のために、医療の普及面で大きな功績を残しました。昇は、安政元年(1845)、佐倉藩に仕える医師の子として生まれました。昇の父は、佐藤泰然について西洋医学を学んだ医師でもありました。昇は、少年のころより医学の修行に努め、本格的な西洋医学を佐藤尚中から学びました。明治になると、尚中について東京に出た昇は、大学東校(今の東京大学医学部のもと)に入学し勉強に励みました。学校を卒業すると、陸軍軍医として西南戦争にも従軍しました。西南戦争が終わると佐倉に戻り、済生堂病院を開き地域医療に尽くすことになりました。これは、病院の少なかった当時、地域の人々には大変ありがたいことでした。昇は、済生堂病院の院長として患者の治療につくすかたわら、千葉県連合医会を作り、地域の医師の交流を図りました。昇は、多くの人々への医療の普及のために次々と行動を移しました。明治20年(1887)には、千葉県県議会議員、明治21年(1889)には、県議会議員と兼任で佐倉町町会議員となり、明治23年(1890)には、第一回衆議院議員選挙に当選し国会で活躍することになりました。昇は、国会議員として結核治療を国の法律として制度化させたのです。
 その後も昇は、台湾の医療の普及に協力したり、学校に学校医制度を導入させたりと日本の医療の普及に心血を注いだのでした。そして、大正8年(1919)、結核予防法の公布を見届けたかのように、翌年、67歳の生涯を静かに閉じました。
佐倉市教育委員会発行 「佐倉市郷土の先覚者」 シリーズ 小事典T より