太田用替ケ丘に、鎌倉時代、千葉常胤が初めて陣屋を置き、当時は人家も並び立ち一小市をなしたといい、又、城には、室町時代の中ごろ、字番塚(バンヅケ)の地に千葉氏の支城があったという。 市内には、史実と伝承とを合わせると、いわゆる城址なるものは極めて多い。
 土井大炊頭(オオイノカミ)にはじまる堀田氏の佐倉城、臼井の原氏の月井城、岩富の原氏の岩富城、徳川家康の五男武田信吉の本佐倉大堀の館、志津の塁や小竹五郎高胤の小竹城、萩野越中守の小篠城等は一応史実とみることができるが、その他にも篠塚伊賀守の居城と言われる大篠塚の城、上勝田や八木、高岡等のとりでなどをあげることができる。しかし、これらは城や太田のものと同様、だれの居城であったのか、明らかでないものが多い。したがって私がこれから述べることも、必ずしも史実ではないことを、はじめにことわっておかなければならない。
 さて、足利の幕府は鎌倉に関東管領を置いて東国の守りに任じていた。しかし三代将軍義満が金閣寺を建て、八代将軍義政が銀閣を営み、その生活がしだいに都の貴族の生活になれ、ぜいたくに花やかになってくると、その弊害は方々にあらわれてきた。武士は武上らしさを失い、家来も家来らしくなくなり、地位の低いものが実力を以て上のものをおしのけ、農民は団結して領主や地主にせまり、世の中はさわがしくなり、戦国の色もしだいに濃くなってきたのである。
 ちょうどそんなころ、関東に最も重きをなす下総国の守護千葉介の第16代胤直の長男胤将は、寺崎に新しい城を築き、その家臣、原氏の臼井城と共に北総の勇将を任じ、第17代をきめていたが、はじめこれに男子がなかったので、馬加(マクハリ)の城主千葉満胤の次男康胤を養子としてこれに居らせた。しかしやがて胤将に実子が生まれると、康胤はもとの馬加へ帰され、千葉本家の後をつげなくなってしまった。その不満は例えようもなく、もんもんの日を送っていた。それは、ちょうど今から550年ほど前、将軍は第四代義持から第八代義政のころであったであろう。
 管領足利成氏(シゲウジ)をたすける執事の上杉憲忠が、その主人の管領、古河公方足利成氏に討たれると、憲忠の奥方の父上杉治郎大夫持朝は大いに驚き、さっそく「関東に再び反乱」と早馬を立てて将軍義政に注進した。将軍はさらに驚き「直ちに成氏を退治すべし」と、上杉氏に命じた。だから関八州の兵は、ことごとく鎌倉にはせ参じ、合戦となったが、成氏はもろくも敗北し、千葉の新介をたより夜にまぎれて下総の国は古河の城にのがれ去ったのである。
 これ以来、足利氏に代わって上杉氏が管領に任命されたが、しだいにその権力を振い、再び憲忠の仇成氏を討とうと、二万の大軍をひきいて古河の城に押し寄せた。古河は手勢わずかに300、小勢よく奮闘したが、二万と300。衆寡敵せず、遂にその170余騎を失ってしま
った。しかし、成氏は再び危うく助かり、寺崎の城(俗に太田の城)へのがれ落ちたのである。寺崎城が関東のみだれにまきこまれる原因はここにある。
 千葉家は元来、源氏時代からのゆかりにより、足利氏の忠臣であり、当然成氏を助け、上杉氏征伐のたくらみをめぐらしていると、管領の上杉右京太夫憲政と扇ヶ谷の上杉民部大輔朝定は、機先を制して、つごう2万5000余騎をひきいて寺崎へ向かった。寺崎では千葉殿、成
氏の恩顧を受けたもの共へ檄をとばし、兵をつのると、小見川に設楽左衛門尉(シダラサエモンノジョウ)、飯高に平山弾正左衛門、中村に中村但馬守、成戸に山口主膳、鹿島に高木兵衛尉、香取に香取大宮司、円城寺、椎名、本庄、宍倉、小川、海上(ウナカミ)、井田、瀬里、竹野、幡谷、原、木内、鏑木、三谷、上志津、馬場、肋崎等の面々が集まり、つごう一万2000余騎となり、家々の
旗を押し立て、寄せくる敵を「いまやおそし」と待ち受けていた。
 寄せ手の大将上杉朝定は「この寺崎の城は要害堅固であるから、たやすく攻め落とすことはできまい」と、自らは上野村に、またの大将上杉憲政は山梨村に陣屋を築いたが、敵の謀にだまされ、両将の手兵430余騎を討ちとられ、負傷者が多数でたため、両将は大いに怒り「ぜひとも勝負を決せねば」と覚悟をきめた。そこへおりあしくも鎌倉の留守をねらって、北条氏政が襲ってきたという飛馬。
 「すわ一大事」と無念やるかたもなく、ひとまず陣を開き「鎌倉へ帰陣」と、とるものも取り敢えず、山梨・上野の両陣を引き払って、鎌倉へ上ってしまった。
 しかしやがて、上杉憲政は馬加の康胤が、本家の後つぎになれなかったのをうらみに思っていることを知り、ひそかに使いを送って相談すると、康胤は「しからば、私を千葉介にして下さるか」と申し送った。管領上杉はもちろん「仔細あらず」と直ちに承認した。ここに馬加康
胤と上杉との連合は成立した。
 一方、千葉家の四老木内・鏑木・原・円城寺のうち、臼井城主原越後守胤房は円城寺下総守尚任(ヒキトウ)と互いに権勢を競い、とかく不和がちであったので、康胤はこれに使者を遣し、同盟を申し込んだ。原越後守も、また、異議なく、たちまちにしてここにも連合は成立した
のである。
 馬加陸奥守康胤・原越後守胤房の両人は、互いに意を得たよるこびは、例えようもなく、「謀の洩れぬ中に急いで打ち立とう」と、つごう一万余騎をひきいて、享徳三年(1454)6月6日の夜半、寺崎の城へ押し寄せたのである。城中では全く思いも寄らないことであるから、慌てふためき、そのうえ敵は多勢にこちらは小勢、防禦の備えもなく、「上を下へ」の大騒ぎであった。このとき中村但馬守・萩原勘解(カゲ)由左衛門・高階(タカクス)雅楽助(ウタノスケ)ら大手門を固めてよく防ぎ、よく戦う間、円城寺下総守尚任は、城主父子や御台所を伴って、東の小門から忍び出て、多古城に立て籠った。ここに康胤はやすやすと城を乗っ取り、入れ替わって寺崎城に居住し、自ら千葉介と改名して不義の栄耀をむさぼったが、やがて不義なるがゆえに、万人から指弾されるに至ってしまった。
 しかし、鎌倉の管領上杉からは「千葉介追討」の命が下り、長尾左衛門尉が来て康胤勢に加わり、その勢いはさながら雲霞のよう。多古城既にこれを聞き「油断はならぬ」とまず軍勢を集め、円城寺下総守尚任、中村但馬守、小見川に左衛門尉、飯高に平山弾正左衛門、成戸に山口主膳、常州鹿島に高木兵衛左、香取の大宮司等、その勢つごう800余騎、多古城から宮川表に出張して戦った。寄せ手は大軍とはいえ、多古軍の勇敢な攻撃にむしろ、たじたじ。そのひるむすがたに大将長尾左衛門「敵を広場に引き出し、中に包んで討てや」と下知し、備えを立てて控えるを見て、円城寺は貝を吹き、多古と志摩の両城へ引き退ってしまった。時は今と、寄せ手の大将馬加陸奥守・長尾左衛門尉は猶予もならず、直ちに大軍をひきいて押し寄せ、万雷の如く攻め轟かせれば、胤直父子も今やどうすることもなく「是ぞ最期の戦」と譜大恩顧の随兵300、丸くなって切って掛かり、ここを先途と戦ったが、いかんせん小勢に多勢、遂に戦い疲れ、ただただ討死するものばかり。胤直父子も今は「己に生害」と思われたが、左馬肋というものが多古城を打って出で、千変万化してよく戦った。しかしやがてこれも武運つたなく討死かと思われたころ、円城寺尚任は主君胤直を諌め「討死と御覚悟極められてひとまずここを落ち給え」と申して、月星の旗を尚任の腰に括り、阿弥陀堂の屋根に火をかけ、切腹のように見せかければ、寄せ手も「さては胤直生害」と心得「いざや御首を頂戴しよう」と、燃える阿弥陀堂をとりまいた。しかしこのとき既に胤直ら主従九人、沼の忍路からいずかたへともなく逃げのびてしまったとか。
 胤直らはやがて武蔵に太田道灌をたより、寄偶していたが、道灌死に、そのため胤直、千葉帰国の望みも果たさず、他郷に果て、千葉氏正統の系図は絶えてしまったのだと言う。
 さて、寄せ手の総大将馬加陸奥守康胤に御子二人。長男胤特が寺崎の城にいたが、後、康胤再びここに来、千葉介と称して、その威光ははなはだ厚く、門前市をなしてにぎわい栄えたという。しかし「主君の家を亡ぼし、栄華を極むる。必ずや天罰をこうむるであろう」と、世の人々は皆、これを憎からず思うものは一人もなかった。そしてその生活は、酒によい、歌舞にくれ、おごりあまりにひどく、老人の諌は十に一も聞き入れない。だから、はじめの盟主臼井の城主原越後守も、自然その誼(ヨシミ)もうすらぎ、ようやくために千葉介平康胤の武運も尽きてきた。
 このとき、岩橋に、千葉家第十三代氏胤の彦孫刑部少輔輔胤(ギョウブショウユウスケタネ)は「時を得たり」と小見隼人肋を臼井に送り、城主原左衛門尉胤貞に謀り、親族諸臣、一門一家の者へ廻文を廻してふれた所、これに応えたもの神崎左馬介、押田佐仲、野手太郎次郎、神能内記、本庄外記、幡谷数馬允、椎名伊予守、粟飯原(アイバラ)左兵衛尉、村田右兵衛尉、小見川藤馬、大須賀肋崎、神島、小川、宍倉、亘(ワタリ)、深谷、斎藤、布施、山崎、渋川、坂戸、成戸、千田、そのほかつごう1800余騎、康正二年(1456)九月晦日、夜、寺崎城へなだれを打って攻め寄せた。
 城中では康胤、胤持父子は、全く思いも設けぬ事。あわてふためき、まず本庄内蔵助が櫓(ヤグラ)に登り「唯今夜陰に乗じて押寄せし大将は誰人か、名乗り給え」といえば、寄せ手の大将輔胤は
 「吾は岩橋刑部少輔輔胤である。康胤私の恨みを以て大守千葉殿父子を討ち亡し、自ら名を千葉介と称し、おごりに更けり、諸臣を侮り、諌を用いず、依って我等義兵の旗をあげたのだ。康胤を討たん。いでや出あえ」
と大声に叫んだので、康胤
 「それがしは胤将の命令で千葉介となるはずのところ、胤将に実子が生まれ、約束に背かれた。その憤りにより、やむを得ずこうなったのだ」
と言えば、輔胤はさらに返して
 「正統の一子が誕生すれば、正統に家をつがすは当然である」
等、しばらく論戦していたが、その中に寄せ手の将士、城の四方を押さえ取りまいて攻めたてたので、城中の士卒も却って、胤将父子を討ったことを後悔し、にわかに心を改め城門を開いて敵を引き入れた。城主康胤父子に従うものは中台主税介、小中台為五郎、山梨左衛門、鷺沼兵庫、舟橋飛弾守ら僅かに150。かつは喚き、かつは叫び、戦いに戦ったが、九牛に一毛、何かは以てたまるべき。郎党忽ちにして討死し、康胤は残兵少々率いて、その夜の中に上総の方へ落ちて行ったが、しかし夜もやがて明ければ、追手の大将は康胤を討ち洩らしたことを残念に
 「どこまでも追って討ち取ろう」
と、公津の五郎胤友が天守閣に登り、千葉野の方をはるかに落ちてゆくのを見届け「いで、追いかけて討ちとめん」といえば、みなみな我れ先にと乗り出し、曾我野を過ぎるころに追いついた。
 康胤は「今は遁れん術もなかろう」と引きかえして、上総下総の境の村田川を前に奮戦遂に力及ばず、子息胤持は乱軍の中に討たれ、康胤はまた、甲を脱ぎ捨て、立ちながら咽喉を貫き、自刃して果てたのである。
 おごる武将、不義の武将の命ははかない。康胤の首は、村田川の岸にさらされたとか。こうして輔胤は堂々勝鬨をあげ、寺崎城に帰り、第19代千葉介をついだという。千葉家相続争いの一駒である。
担当 菅(スガ) 勇二