昔、天辺(アマベ)に70余歳の尼さんが住んでいた。毎日お地蔵さんを拝んでいたが、承久三年(1221)の10月ごろ、時雨の後さむかったので、柴などを折り、焚いていると、一人の旅僧が錫をならしてきて、一夜の宿を頼んだ。しかし、
 「住みなれた私でさえ、住みにくいこのあばらやに、どうしてあなたが、おやすみできましよう」
と、お断りしたが、旅の僧は、
 「出家というものは、樹下石上に実相を観じ、塚間白骨に無常を悟るものです。あばらやだとて、何で苦しいことがありましょう」
というので、断りきれず、尼さんは宿をかした。夜があげて、朝食に蕨餅をすすめたところ、旅の僧がいかにもおいしそうにめしあがるのを見て、
 「私は貧乏なので、年中蕨をとって生活しています。でも、どうも渋が多くて困ります」
となげくと、旅の僧は、
 「私に霊験あらたかな仏があります。お地蔵さんです。もしあなたが、この尊像におつかえし、一心に祈念をこめれば、きっとこの山の蕨には、ずっと渋がなくなるでしょう」
と、笈(オイ)の中から一体の地蔵尊を出してくれた。尼さんがそれを棚の上に安置して三拝九拝している間に、旅の僧はいずこへか立ち去ってしまったという。
 以来尼さんは、一心にこの地蔵さんを尊信したが、その年からこの山の蕨に渋がなくなったといい、天正のころ(1573)、佐倉城主千葉邦胤(クニタネ)公が入国された時、この蕨を奉ったところ、邦胤公は大変よろこばれ、庵主にさまざまのものを賜わり、そのやぶれ寺に弘法山遍
照寺宝寿院という名前を下さったのだと伝えられている。そして今なお、この渋無蕨は、年々生じているのである。
 土地の人たちは、この旅の僧は弘法大師であったといっているが、弘法大師に関する伝説も全国的にかなりたくさん伝えられている。
 宮本には御手洗(ミタラシ)の家があり、その傍らの小さな池は、弘法大師が手を洗われたところだという。御手洗は印旛郡酒々井町岩橋にもある。これは弘法の滝ともいわれるが、そのわけは弘法大師が下総に巡錫(ジュンジャク)の時、この地の農民が日照りのために大変困っているのを見て、錫杖でその地を突きさした。すると、不思議にも噴き出した水が今なお絶えることがなく、この水を飲むと婦人は安産し、乳の足りない母親は足りるというので、特に婦人の信仰を集めているのである。
担当 菅 勇二