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平将門は、桓武天皇から三代目の子孫上総介高望(タカモチ)王の孫であるが、約1000年前の天慶二年(939)11月、関東地方一帯を従え、自ら平親王、子供を王子、屋敷を宮門と称したが、その翌年二月、従兄の平貞盛や、ムカデ退治で有名な俵藤太秀郷らのために亡ぼされた。その場所がいわゆる将門山だというのであるが、そこでは夏になっても決して桔梗は咲かないのである。 なぜかというと、将門の妾に桔梗の前という美しい女がいたが、実はそれは俵藤太の妹で、敵方の回し者であった。将門は平素から用心深い人だったので、自分と瓜二つと言われるほどよく似た武士を六人も身近に従えていた。だからどれが本物の将門かちょっとわからなかったのである。そこで桔梗の前は、ひそかに兄秀郷に使いをやって、 「朝日に向かって紫色の光を放っているのが本当の将門です」 と知らせたので、ついに将門は秀郷のために討たれたという。だからこの将門のうらみによってこの地方では桔梗は生えないし、また生えても花が咲かないというのである。 この「咲かずの桔梗」の伝説は、印旛郡印西町木下(キオロシ)や東金市、あるいは市川市等にもあるが、ここにはまた、将門の一女、滝夜叉姫の伝説もある。 姫は父の無念をはらそうと、ひそかに将門山にこもり、がまの妖術を習っていた。そのうわさを聞いた源頼信は、 「滝夜叉姫を討ち取ってまいれ」 と光国に命じた。光国は命をうけて下総に下り、将門山をおとずれ、姫を持っていると、やがてどこからか一人の女があらわれ、光国に呼びかけた。 「もうし、光国様」 おどろいた光国が、 「いずこよりかは見なれぬ女、我が名を呼びしは、まこと曲者、いで正体を」 とにじり寄ると、女はあわてて、 「あ、もし、様子言わねばお前のうたがい。私は都の島原できさらぎという傾城(ケイセイ)でござんすわいな」 「心得がたきはその言葉。かくもへだてしこの国へ、傾城遊女の身を持って、来たり住むべき言われなし。よしまた、都の遊女にもせよ、ついに見もせぬその方が、なぜに光国を」 「おたずねはなくともお前の胸、過ぎし弥生の中空に」 などと、女は光国を口説きにかかり、あらゆる表情で愛をうちかけた。光国はその愛を受け入れ、 「いかさま切なるおことが心底。さほどに思う愛情をうくるがかえて本意ならず、疑念はさっぱり晴れたけれども、修業の我が身の上。それにつけてもいにしえの、東内裏のそうぐうを、思い出せばおおそれよ」 と、将門が討たれたときの合戦のさまを物語った。それを聞いて女は、態度は乱れ、目には涙さえうかべている。光国はそれをあやしみ、 「今、合戦の様子を聞き、しきりに催す落涙は」 と、女につめよった。女は、 「なんで私が泣くもので。泣いたというは、おおそれそれ、可愛いいとのごに別れのとりかね、きぬぎぬつづるあさ雀、雀が鳴いたということいなあ」 と苦しい返事をした。女にとっては、そしらぬふうをしたつもりでも、光国からみればただならぬ様子が、ありありとわかった。しかしなお、光国は、そしらぬふうに女の振舞いを見守ったが、突然、女のふところからお守りのような物が落ちた。それをひろった光国は、 「さてこそ、その方こそ将門が忘れ形見、滝夜叉姫であろうがな」 と問い正した。女は、 「知らぬ。おぼえはないぞ」 と返答はしたが、光国の確かな目にはかなわなかった。その女こそまさしく将門が一女、滝夜叉姫であった。姫は本性を見破られたいきどおりに、 「本性見破られし上からは、光国、そちが命を断つ。覚悟なせ!」 と、とうとう本音をはき出した。光国は、 「何をこしやくな」 と、二人の大立ち廻りが始まった。姫は得意の妖術で光国にかかっていった。さすがの光国も、この妖術にはたじたじであったが、剣をとれば武勇にすぐれた光国、一生懸命立ち向かい、はげしい戦いとなった。しかしその勝敗のほどはわからない。 |
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担当 菅 勇二 |