時は明治元年(1868)10月10日のこと、東の方から菰包みを背負った一人の旅人が、岩富の太兵衛の店に立ち寄り、腰かけて冷酒をのんでいた。しばらくすると、三人の武士が来て店内をのぞき込み、その男を見ると突然、
 「野郎、ここにいたか」
と怒鳴った。男は酒茶椀を投げ出し、脱兎のごとく裏庭へ逃げ出した。三人は太刀を抜き、逃がすものかと咄嗟に店の土間を駈け抜けた。男も必死で傍らの炭焼場の揚木を拾い、柿の樹の下で三人の敵に立ち向かった。この旅人風の男は実は水戸藩士である。水戸藩の賊徒諸生党の一味は、首領市川三佐衛門に従って脱走し、しばしば官軍に抵抗し、ついに敗北をきっし、下総に逃れたが、追討の官軍と八日市場で開戦、中台で決戦に及んだ。しかし、多勢の官軍には抗しきれず、賊徒の将卒は20余人枕を並べてたおれ、残兵は逃げ散った。
 今、この太兵衛の店で酒をのんでいた男も、その敗残兵の一人で、太刀を菰に包み、旅人に変装して来たものである。土間に立てて置いた菰包みの太刀を抜く蝦がなかったのである。三人の武士は、氷のような真剣をもって対戦となったが、揚木を持った一人と、太刀先をそろえて立ち向かう三人では、とうてい対等の戦いではない。しばらく打ち向かったが、やがて血路を開き、体をかわして逃げ出そうとしたところ、水溜りに足をすべらし、どっと倒れた。武士はすかさず、男の肩先から一刀を浴びせた。立ち上がろうとするところ、今一人の武士が二の太刀を浴びせた。男は鮮血にまみれてたおれた。
 この惨状を目のあたりに見て驚いたのは、太兵衛一家である。ただの旅人と思っていた矢先、突然果たし合いとなったのだから、家内中蒼白となり、転倒せんばかりの驚きである。こうして遂に三人の官軍は敵の首級をあげ、血刀を拭って鞘に収め、再び店にもどり、驚く太兵衛の家内に対し、
 「静かにせよ。突然のことでさぞ驚いたであろうが、我らは水戸藩のもので、この者は賊徒である」
と告げられ、やや安堵した。
 静かな村のこと、このことは電光石火のごとく伝わり、名主をはじめ、こわいもの見たさに村人たちは駆けつけた。すると武士は名主に向かい、「我らは水戸藩の追討軍である。この賊徒の首級の始末を手伝うように」と命ぜられた。そこで村人たちは醤油樽を用意し、首を詰めてこれをかつぎ、武士たちの供をして馬渡の旅館蔦屋(ツタヤ)へ送り届けた。三人のうちの一人は武士ではなく、武射(ムザ)郡沖渡村の岡っ引佐藤米吉という者で、土地の案内役としてついて来たのである。
 さて首無死体は、翌11日、柳沢原(印旛郡八街町西林)に埋められた。このとき死体を調べたが、布片に書き記された名前は半蔀(ハジトミ)平義中であった。今、西林の大塚に義中の墓碑があるが、風邪の神様として参詣する者が多いという。
担当 菅 勇二