木野子(キノコ)の墓地内の大きな八重桜の木の下に、一人の侍が生きうめになった。そのとき侍は銀の鐘をもっていた。そしてそばにいた人にいった。
 「この鐘の音が聞こえなくなったらわしは死んだのだと思ってくれ」
やがてその鐘のお供聞こえなくなったが、翌朝墓地へいっておどろいた。そこには大きな石が立っているのである。大人一人では手が足りない。丈は大人の背丈ぐらい。重さはそうとうあろう。つるりとした丸いなすのような石である。だが、そんな石にも下に供え物をのせるくらいの台がついていた。だれがどういいだしたのかはわからないが「イボ神様」と言われるようになった。
 いつもイボができるとその石でこすり、「来年のはつ豆ができたら一番最初におあげいたします」と言ってなおしていただく。けっこうなおるらしく、今でも村人は「いぼ神様」として信じているのである。
 しかし実はこれは、木野子宝鏡院の開祖加藤竹丸の墓である。加藤竹丸忠秀は聖武天皇の末孫で、肥後の加藤秀清の二男である。寛文四甲辰年(1664)8月15日午の刻(午前12時ごろ)なくなったのであるが、徳川氏のために亡ぼされ、一族離散していたので、徳川家の動静をさぐるため、雲水に身をやつして、当地に滞在し、よく住民を愛し、また愛されたものという。
担当 菅 勇二