立派な仏像はよく流れるようだ。
 室町期の作で、県下の金剛力士像としては屈指のものといわれる岩名仁王尊は、鹿島川を流れ下り、岩名川岸に漂着したという。近郷の人々がこれを引き揚げようとしたが、仏体は重く、どうしてもあがらないが、岩名の人だけは軽々と運ぶことができた。これは岩名に鎮まりたいという意味であろうと、村人は天神前の堂標に安置したものといわれている。
 鏑木周徳院の薬師仏は秘仏であるが、その脇に並ぶ日光・月光の両菩薩は、室町期の特徴を十分に備え、しかもふっくらとした愛らしい、全く慈悲深い日光・月光らしいものであるが、これも、昔、奥羽の藤原秀衡(ヒデヒラ)の守り本尊であったものが、寺崎川の中から投網にかかって出てきたものといわれている。
 また、寺崎密蔵院の薬師如来も、300年前、明正天皇のころ、堂下を流れる鹿島川の薬師堂淵に漂着したもので、霊光燦然と輝き、村人は驚いて今の地に小堂を建てて祭ったものだという。
 さらに海隣寺御本尊もそうだ。これは海上月越(ツキノゴシ)如来と呼ばれ、千葉常胤が家士を率い、治承三年(1179)7月26日、海辺に月を見ていたが、おりしも海上に異光を放つのをみて、網をうってすくわせると、見事な金色の阿弥陀如来を得た。これを「海上月越如来」と名づけ、文治三年(1187)馬加(マクハリ)の地に一寺を建立、本尊として安置したといい、臼井光勝寺の闇魔大王も、その御首は印旛沼に流れ出たものという。
 特におもしろいのは、岩名仁王尊である。その流れ下った鹿島川の上流の岩富では、これを流したと伝えているからである。
 いずれにしろ、流れる仏は排仏思想の影響であろうし、それが霊光燦然と輝いたり、その地の人のみが簡単に持ちあげたりするのは、やはり仏威仏力を承認することからきているものであろう。
佐倉地区 岩名  仁王尊
佐倉地区 鏑木  周徳院
根郷地区 寺崎  密蔵院
佐倉地区 海隣寺 海隣寺
担当 菅 勇二