佐倉地区 大蛇町 文珠寺
佐倉地区 城内町 愛宕坂

 
大きいといえばやはり天狗を思い出すであろう。天狗伝説も市内に二、三あるが、この天狗も人知では到底考えられないことをゆうゆうとのける怪力を持っているのである。
 昔、大蛇に文珠(モンジュ)寺という寺があったが、ある年の6月7日の朝五つ半(7時)ごろ、住持は徳利を持たせ、酒を買いに小僧を本町(モトマチ)へやった。待っても待っても帰らないので不審に思い、和尚はあちこち尋ねさがし回って、前の並木に来てみると、徳利は松の枝にかけてはあるが、小僧は見えない。しかたなく、和尚は寺へ帰って待っていた。ようやく日が暮れて小僧が帰って来たので、問いただしてみると、
 「京の祇園を見て、只今戻りました」
という。和尚は、
 「14、5日もかかって京へは行くのに、日帰りなどとたわけたことをぬかすな」
とはげしく叱った。10日ほど後、西国へ出た者が帰って寺に来て、四方山話をしていたが、
 「ここの小僧さんは7日の日に、京の祇園祭をさじきで見ていたが、ずい分早く帰って来たものだなあ」
という。びっくりした和尚は、小僧に祇園祭の様子を聞いた。ところが、いうことがひとつひとつ少しも違わない。あまりのことに
 「どうしていったのか」
と尋ねると
 「徳利を持って並木の中ほどまで行くと、大きな山伏が来て、今日は京の祇園祭だ。一緒に見物しないかと、つれていってくれました」
と。このとき和尚はハタと手を打って、奇態なこともあるものだ。全く天狗の仕業にちがいあるまいと、その後はだれかれとなく話したので、世に知れわたったと「古今佐倉真佐子」に書かれている。
 天狗は空をかけるのであろうか。実に歩くのが早い。直弥(ナオヤ)にはこんな話がある。
 村人たちが御嶽(ミタケ)へ参詣したときである。山で出されたジャガイモの味のわるさをかたっていると、翌朝は自分の畑のものと同じ味のを出されたので、
 「これは実に味がよいが、どこの産ですか」
と尋ねると
 「昨夜あなた方は、ここのがまずいといっておられましたので、すぐ直弥へ行って、あなたの家のザルをかりて、あなたの畑からとってきたものです」
という。一夜で御嶽から直弥まで往復するなど、滅相もないとあきれていると、
 「これがその証拠です」
と、村人の家のザルを示し、
 「お帰りになったら、どうか畑をしらべてみてください」
と言われるままに、調べてみると、たしかにジャガイモはその晩のうちに掘りとられていたという。
 こんな天狗は、その無双の力のために、時に人々から恐れられたようである。同じ直弥に、こんなことも伝えられている。
 「子は清水」の家は、背戸の山に昼なお暗く大木を繁らせていたが、その中にさしわたし三尺(約1メートル)にも余る樫の大木があった。ある晩、風も吹かないのに突然、辰巳(南東)の方から、家も吹き飛ぶかと思われる音が「バサバサ」とし、やがて、天地もくだけ去るかと思われるほどの地ひびきとともに「メリメリ」という音がし、「カンラカラカラ」という笑いと共に、そのさわぎは静まった。翌朝、おそるおそる起き出して見ると、さしもの樫の大木も、見事にへし折られていたので、村人たちは天狗のなせるわざと、恐れおののいたという。
 しかし、天狗もときどき愛橋のあるいたずらをするようだ。
 佐倉の愛宕坂のあたりでは、夜ごとに、山から砂の落ちる音が「サラサラ」とする。昼は全く落ちないのに、夜ばかり落ちるのである。また、ある武士が夜、この坂を通っていると、ふところへ銭一文をなげこまれた。それは普通の寛永通宝であった。またある大晦日の晩、松井七左衛門が円正寺へ歳暮に行き、宵の頃この坂を通った。雨が降っていたので傘をさして坂中をおりたとき、上から何かがころころとよほど高い音でころがってきた。ちょうど七左衛門の両足の間にはさまり、歩くことができなくなったので、傘をたたんで柄で力まかせに突いたところが、「カンカン」、音がした。片手でさわってみると、なんと茶釜であった。それから1時間ほどの間、傘の柄で突いていると、よくやく足がはずれたので、いっさんにかけ帰ったという。
 これらはみな、天狗のしわざとみられている。
 こうして多くの怪異談を伴い、魔物としておそれられている天狗は、また「山の神」の別称だとされ、山の神はあるいは大山祇命とか、あるいは、木花之開耶姫だとか言われている。そのためであろうか。直弥の「子は清水」の家の背戸の山には、昔、桜の大木があり、それが木花之開耶姫の住み家であったと伝えているのである。
担当 菅 勇二