(根郷公民館発行「根郷風土記」より)
 六崎組十善講と言うのは、弘法大師の信者が四国にある八十八箇所の弘法大師の霊場(四国札所)を遍路することを模して、佐倉地方の寺院に札所を設けて遍路する大師講の別称である。
 六崎組十善講が、講として発足したのは明治33年(1900年)であるが、その前身は文政年間(1818-1829)に六崎村の応神山鏡宝寺の住僧、某なるものが弘法大師の宗教的思想普及のため四国札所に模し、近隣村々に88ヶ所の札所を設定し、御詠歌を掲げて順拝しながら村民に真言の教えを説いたのが始めで、それがいつの間にか村民の信者がその僧と一緒に巡るものがでてきた。
 以来、鏡宝寺の住僧が世々それを受け継ぎ行なってきたものであるが、明治33年に時の住僧萩田保任師が組織化し十善講と名づけたのである。
 六崎組十善講が発足した当時の講員は、根郷村111、佐倉町34、和田村86、臼井町30、志津村32、千代田村96、旭村32、酒々井町17、合計3町5村438名。
 札所は98箇所あり、遍路には大回りと小回りの二種類がある。大回りは毎年4月8日から16日の9日間毎日遍路し、小回りは大回りの順路を6月から3月迄(12月休)の9日間に分けて毎月21日に遍路する。 札所における御詠歌の掲番は四国札所をそのまま模して用いているが、番外(俗に欠番といっている)としてその寺院で特別に御詠歌を作って掲げているところもある。御詠歌はすべて平仮名で書き、歌い易くするため歌詞を変えている場合もあるので、意味の分かりにくい部分が多いようである。
 遍路にあたっては導師が責任者となり講員を引率するのであるが、行動はすべて貝吹きの吹く法螺貝の合図による。山門を入る前に法螺貝を鳴らし、山門を入ると先ず本堂の前に並び御本尊に対し「仏説摩訶般若波羅密多心経」を唱え、次に大師堂に行きそこの掲番の御詠歌をうたい、終ってから三遍づつ次の「光明真言」と「宗祖宝号」を唱えて退山するのである。
   
光明真言 <おんあぼきゃ ぺいろしゃのぅ まかぼだらまにはんどまじんばらはらばりたゃ うん>
   
宗祖宝号 <南無大師遍照金剛>
 講員は一様にせってい(接待)袋を肩にかけている。つまり、各部落では巡礼に回って来た講の人たちを接待するので、食べきれないものを持ち帰るための袋である。接待には村並みと個人別とがあり酒、白酒、餅、握り飯から菓子、せんべい類を寺に持ち寄り振舞ったので、せってい袋はそれらの品で一杯になるのである。そのうえ講員のなかに親戚、知人がいると、それそれの家に迎えて特別にご馳走をした。
  ご馳走になった時はお礼に次の御詠歌の「お茶の功徳」をうたう。
    
<有り難や お茶の功徳に身を休め この世の功徳 のちの世のため>
 大回りが終った翌日の17日には、各部落毎に草鞋ぬきと言って慰労会を催すのである。 
 佐倉地方での十善講は六崎組、佐倉組と千葉寺組とがありここでは六崎組十善講について、札所をみんなで手分けして調べました。
担当 菅 勇二