臼井城跡は、臼井氏によって築かれたといわれますが、16世紀中頃には原氏が臼井城主となります。戦国時代に原氏は、千葉氏をも凌ぐ勢力となり、永禄9年(1566)には上杉謙信の臼井城攻撃を撃退しています。しかし、天正18年(1590)7月に原氏は北条氏とともに滅亡し、翌8月には臼井城に徳川家康の家臣酒井家次が入城します。慶長9年(1604)12月に家次が上野国高崎に転封されると臼井城は廃城となりました。 臼井城は、「城ノ内」と呼ばれる区画が城の中心となり、この部分から多くの陶磁器が出土しています。その前面には「御中城」と呼ばれる区画があり、この2つの区画が臼井城の中枢と考えられます。これらの区画の周辺には、家臣屋敷や寺社が設けられていましたが、その外側を土塁や堀によって区画することによって、城内に取り込んでいったとすいていされます。現在「大名宿」「外城」「寺台」などの地名が残されています。

 永久2年(平安時代1114)千葉介常兼の三男、臼井常康が築城したことに始まるといわれ、空堀や土塁が残っている。 宝治元年(1247)北条氏と三浦氏との衝突時に三浦氏に組した臼井太郎、次郎が敗死して臼井氏衰退する。文明11年(1479)大田道灌、千葉孝胤の守る臼井城を攻撃し落城する。1550年頃、原胤貞、臼井城を奪取し以後、源氏の本城となった。永禄9年(1566)里見義弘が要請し上杉兼信が来攻、これに勝利する。天正18年(1590)豊臣秀吉により小田原、北条氏が敗れ共に臼井城も落城原氏も滅亡した。天正19年に徳川家臣の酒井家次(三万石)に与えられたが、慶長9年(1604)高崎に転封になり廃城となった。波乱万丈の歴史を刻んでいる。 現在は公園として整備され、二の丸跡には芝生広場で周囲には四季折々の花、樹木と、
ここから印旛沼を見渡す景色は第一等です。

 平安時代末から鎌倉時代初めにかけて、千葉氏一族の臼井常康が築城したといわれ、現在も空掘りや土塁が残っている。

二の丸跡から印旛沼を見渡す(2006年11月9日撮影)

二の丸跡から印旛沼を見渡す(2006年11月9日撮影)

臼井八景の一つ「城嶺夕照(じょうれいせきしょう)」の掲示板は公園南口にあります
担当 白木宏繁