明治時代の道徳家、旧佐倉藩士西村茂樹(ニシムラシゲキ)は、明治5年(1872)に佐倉城外68番屋敷に寄留し、書室を「修静居」と名付けました。茂樹はここで『校正萬國史略(コウセイバンコクシリャク)』10巻を編さんしました。現在石碑のある土地は、修静居跡の斜め向側にあたります。 佐倉藩士西村芳郁(ヨシイク)の長男である茂樹は文政(ブンセイ)11年(1828)3月に下野国佐野藩の江戸上屋敷で生まれ、天保(テンポウ)8年(1837)になると江戸佐倉藩邸内の成徳書院(セイトクショイン)に入学しました。嘉永(カエイ)4年(1851)には佐久間象山に西洋兵法及び砲術を学び、諸外国との外交交渉では佐倉藩主堀田正睦(ホッタマサヨシ)をよく助けました。明治維新後の明治4年からは印旛県参事等の役職を歴任しました。 明治6年には森有礼(モリアリノリ)、福沢諭吉(フクザワユキチ)らと明六社(メイロクシャ)をおこし、また明治9年4月には東京修身学社(現日本弘道会)を設立して啓蒙思想運動を全国的に展開しました。 茂樹は明治35年(1902)に死去し、墓は東京都文京区千駄木の養源寺(ヨウゲンジ)にあります。
担当 白木宏繁