佐倉城跡のある台地は鹿島山といわれ、戦国時代に千葉氏一族の鹿島幹胤(カシマモトタネ)が城を築いた地と伝えられています。この 鹿島山には江戸時代初期に久野(クノ)氏二代と小笠原吉次(オガサワラヨシツグ)が領主として入封しました。この後、慶長(ケイチョウ)15年(1610)から土井利勝(ドイトシカツ)が領主として入封し、利勝は翌慶長16年1月から元和(ゲンナ)3年(1617)まで7年間をかけて佐倉城を築きました。 城内は本丸・・二の丸(出丸(デマル)を含む)・三の丸・惣曲輪(ソウクルワ)(椎木(シイノキ)曲輪・広小路・中下町・大下町など)・根曲輪から構成され、天主・銅櫓(アカガネヤグラ)・角櫓(スミヤグラ)・本丸御殿・一の門・台所不明門(アカズノモン)・対面所・二の門・城米不明門・三の門・椎木門(シイノキモン)・米蔵・大手門・田町門(タマチモン)・会所・鹿島橋門(カシマバシモン)をはじめとして多数の建造物が配置されている。 明治6年(1873)1月、佐倉城内に陸軍第一軍管東京鎮台の佐倉営所が置かれるようになると、城内の建築物は順次取り壊されてきました。
担当 下里雅弘