全国を平定した徳川家康が権威の象徴として初代藩主、土井勝利に命じ築城し元和2年頃に現在残る佐倉城ができた。 石垣を用いず土作りの城という特徴がある。城の周囲に水堀をめぐらし本丸、二の丸の北と東に空堀を配した。鹿島川が外堀の役目となっている。 建物は屋上に御三階櫓、隅櫓、銅櫓、を配し城門としては、大手門、一の門、二の門、三の門、田町門、鏑木門、等が配置された。 城の総面積は約87ヘクタールに及ぶ。明治6年に陸軍歩兵第二連隊が置かれたため城の建物は全て取り験された。その跡に国立歴史民俗博物館が建てられています。公園は城の面影と美しい自然を残し遊歩道が整備され四季折々を楽しむことができます。

 昭和27年11月3日に千葉県指定天然記念物とされた、モッコクとしては巨木であり癒合した夫婦モッコクです

 佐倉城跡のある台地は鹿島山といわれ、戦国時代に千葉氏一族の鹿島幹胤(カシマモトタネ)が城を築いた地と伝えられています。この 鹿島山には江戸時代初期に久野(クノ)氏二代と小笠原吉次(オガサワラヨシツグ)が領主として入封しました。この後、慶長(ケイチョウ)15年(1610)から土井利勝(ドイトシカツ)が領主として入封し、利勝は翌慶長16年1月から元和(ゲンナ)3年(1617)まで7年間をかけて佐倉城を築きました。 城内は本丸・・二の丸(出丸(デマル)を含む)・三の丸・惣曲輪(ソウクルワ)(椎木(シイノキ)曲輪・広小路・中下町・大下町など)・根曲輪から構成され、天主・銅櫓(アカガネヤグラ)・角櫓(スミヤグラ)・本丸御殿・一の門・台所不明門(アカズノモン)・対面所・二の門・城米不明門・三の門・椎木門(シイノキモン)・米蔵・大手門・田町門(タマチモン)・会所・鹿島橋門(カシマバシモン)をはじめとして多数の建造物が配置されている。 明治6年(1873)1月、佐倉城内に陸軍第一軍管東京鎮台の佐倉営所が置かれるようになると、城内の建築物は順次取り壊されてきました。
担当 白木宏繁