↑墓石横に立つ墓碑
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↑向かって右が雷電の墓
左は杉山家の墓
 




 顕本法華宗本覚(ホンガク)山浄行(ジョウギョウ)寺跡の杉山家墓地にあります。明和4年(1767)に信濃国小県(チイサカタ)郡大石(オオイシ)村(長野県東部(トウブ)町滋野(シゲノ)大石)で生まれた雷電為右衛門(ライデンタメエモン)は、天明4年(1784)に伊勢ノ海部屋谷風梶之助(タニカゼカジノスケ)(西の大関)の内弟子、天明8年に出雲国松江藩主松平治郷(マツダイラハルサト)のお抱え力士となりました。初土俵を踏んだのは寛政2年(1790)で、寛政7年には大関に昇進しています。雷電は引退する文化8年(1811)までの35場所、総取組数285で勝ち254、負け10、引分け2、預かり14、無勝負5、休み30の成績を残しています。 享和元年(1801)2月には雷電が臼井宿で相撲の5日間興行をおこない、入場券を30両で売り切っています。興行の元方(勧進元)は忠八、世話人は平次でした。雷電の妻八重(名前おはん)は、臼井上宿で「天狗茶屋」という屋号の甘酒茶屋を営んでいた忠八のひとり娘でした。墓石の正面に「雷聲院釋関高為輪信士」(雷電、宗旨真宗)・「聲竟院妙関日為信女」(八重、宗旨法華宗)、右側面に「釋理暁童女」(娘)、左側面に「俗名 雲州雷電為右衛門源為義 施主飯田忠八」と刻まれています。娘は寛政10年7月8日、雷電は文政8年(1825)2月11日、八重は文政10年1月20日に死去しました。

担当 松田和子