『古今佐倉真佐子』には「此原中大塚一つ有り。芝付てある。桔梗之前がはか也。此原に桔梗一めんに有。一本も花さく事なし。此はか印寛永年中に武州上野(寛永寺)御こんりうの節こん本中堂のむなきに成るよしにて、公儀より切、江戸に上がる。三十三間ある木御吟味にて外になし。此はか印間にあふゆへ御用木に切。切木口六尺斗の大男あしをつまだて両手をあげしに上の切口にはとどかざるよし。佐倉にて申伝御用木と云は此の木の事也」ときされています。 昭和53年(1978)2月に保存区域を設定するために確認調査が実施され、古墳であることが明らかとなりました。

 「平将門伝説」で平将門の愛妾、桔梗の前のお墓だと言われています。「花もなく、茂れる草の桔梗こそ、いつの時世に花のさくらむ」と刻まれ。敵の回し者であった桔梗の裏切りで、トキの羽根で作った矢で、将門は、射殺されたと伝えられ、恨みで将門山には紫色の桔梗は咲かず、トキもこの地には降りてこなかったと言われています。
担当 白木宏繁