城にあるこの城跡は、JR佐倉駅の南東約1.5qにあります。この地は、中世には印東荘六崎郷の一部でした。「香取造営科足納帳」によると、六崎郷は15世紀初頭の応永年間(1394〜1428)には六崎氏が領していました。「城」の地名は、この城跡のある台地の奥にある浄土宗円城寺、もしくは千葉氏の有力な一族円城寺氏に因むものと言われています。 城の中心部は、堀切によって台地から独立し、土橋(ドバシ)から出入りするようになっています。敵がこの土橋から城内に侵入しようとすると、城内に聳え立つ土塁から攻撃されるような造りになっています。また、この南から東にかけて、幾段の細い平坦地があり、城中心部の防御を補っています。また、南西部の谷には、千葉氏家臣であり円城寺の檀家であった深山氏が居住していたという伝承があります。 この城跡の南には、城に侵入する敵を、脇の高台から攻撃する施設がある金部田城跡があります。
担当者 菅 勇二