正俊の墓


正睦の墓


正倫の墓
        
 新町の安城山不矜院(フキョウイン)甚大寺に堀田正俊・正睦・正倫の墓があります。
 寛永11年(1634)生まれの正俊は堀田正盛の三男で、5代将軍綱吉のもとで昇進をとげ、若年寄、老中を経て、天和元年(1681)には大老にまでなりますが、貞亨元年(1684)8月28日に従兄弟の稲葉正休(マサヤス)に江戸城内で刺殺されました。51歳でした。この正俊の墓は昭和11年に浅草の金蔵時から移されたものです。墓は9uあり墓石には「不矜院殿又新叢翁居士」と刻まれています。
 文化7年(1810)生まれの正睦は堀田正時の子です。兄の正愛(マサチカ)の養子となり、家督を継ぎ、藩政刷新を図りました。また、幕府の老中として外交に尽力しました。安政6年(1859)に隠居し、元治元年(1864)3月21日に55歳で死去しました。墓は18uあり墓石には「故佐倉城主侍従従四位下紀文明公墓」と刻まれています。
 嘉永4年(1851)生まれの正倫は正睦の子で最後の佐倉藩主です。明治2年(1869)6月に佐倉藩知事となり、後には殖産興業や藩子弟の教育に尽力しました。明治23年に鏑木町字諏訪尾余(スワビヨウ)に別邸(旧堀田邸)を構え、明治30年には私設の堀田家農事試験場を開設しています。明治44年1月11日に61歳で死去しました。墓は18uあり墓石には「従二位勲三等伯爵紀正倫卿之墓」と刻まれています。
担当 高橋 勲