旧河原家住宅は建築年代は不明ですが、建築様式などから18世紀後半と推定され、佐倉に残されている武家屋敷の中では、最も古いものと考えられています。現在地に移築するまで旧河原家があった屋敷地は、松本氏屋敷ののち、文政(ブンセイ)5年(1822)前後には若林健蔵(謹右衛門)屋敷でした。その後、若林杢左衛門拝領地を経て弘化(コウカ)2年(1845)から河原喜右衛門屋敷となりました。明治時代には佐倉城外50番屋敷とされました。 旧河原家住宅は、平成元年に解体した上で移築復原整備が行われ、この時代に失われていた接客部分が、弘化2年の「河原喜右衛門江屋敷相渡帳」などの調査結果に基づいて復元されました。 この住宅は、L字状に折れ曲がった草葺寄棟造であり、住宅全体における接客部分の占有面積が広く、次の間・仲の間によって家族の居住空間と明確に分離されています。客座敷には、式台のある客用玄関があり、その正面には簡素な床の間が設けられています。居間には釣床があり、主人の居室兼書斎に利用されていたと思われます。家族の日常生活には、板の間である納戸や板の間に畳を敷いた茶の間が用いられました。


  旧但馬家住宅は、19世紀前半の建築で、河内十郎左衛門屋敷地ののち、天保(テンポウ)年間(1830〜44)以降は100石取の井口郡内がこの屋敷に居住していたことが記録に見えます。郡内が万延(マンエン)元年(1860)1月に死去すると、この養子井口宋兵衛(浅井忠の叔父)が郡内の跡式100石を継ぎましたが、この屋敷に引き続き居住したものか不明です。明治5年(1872)の時点では旧禄高20人扶持の岡田陽助屋敷(佐倉城外45番屋敷)でしたが、明治8年に旧佐倉藩士の但馬氏がこの屋敷を購入しました。 平成3年には佐倉市が復原整備し、この時に失われていた南側の土間部分を往時の状態に戻しています。この住宅は、T字状の草葺寄棟造であり、東側の居間を挟んだ南北に突き出した部分に、納戸と茶の間および土間があります。この部分が家族居住用空間であり、西側の接客部分と分けられています。 また、旧所在地と同一地点に復原されていますので、建造物のみではなく、屋敷地の形状や植栽にも武家屋敷の特徴が良く残されています。表の道路に接する部分は客向きの庭となっていて、やや広い空間が残されており、屋敷の裏手には茶樹が周りにある菜園となっており、その周辺には柿・柚子等の果樹が植えられています。


 旧武居家住宅の建築年代ははっきりとしませんが、建築様式等から江戸時代後半に建てられたものと思われます。この住宅がもとあった屋敷地は、斉藤氏屋敷ののち、文政(ブンセイ)5年(1822)前後には依田平内、その後、服部用太郎が居住し、万延(マンエン)元年(1860)以前から明治時代初期には田島伝左衛門・田島育太郎の屋敷(佐倉城外54番屋敷)でした。その後数人の手を経て、明治33年(1900)に武居氏がこの住宅を取得しています。佐倉市では平成8年度にこの住宅を移築復原しました。この復原にあたって、本来ならば草葺屋根という旧状に戻すべきでしたが、火災防止のために不燃材である銅板葺屋根としています。 旧武居家住宅は、佐倉の武家屋敷としては小規模なものです。間取りは中央部分を境として、東側の接客部分と西側の家族居住部分に分かています(移築前は、それぞれ北側と南側に分かれていました)。 また、玄関や長押・畳の種類等の仕様・造作が他の武家屋敷に較べると簡素なものとなっています。
               担当 白木宏繁