八代佐倉藩主、当時11万石、堀田正信は(万治3年、1660年)老中の政治を弾劾し幕府に諫書を提出し無断で、ただ一騎佐倉城に駆け帰った。しかし角来八幡神社下にさしかかった時、馬が疲れ果て倒れ息絶えた。80年後堀田正亮のとき延享3年、碑を建て、馬を供養したといわれている。

 

時は第4代将軍家綱の初期である。佐倉城主堀田上野介正信は老中松平伊豆守信綱の消極的な政治を弾劾し、万治3年(1660)10月8日、幕府に諫書を提出して江戸を無断で立ち退き、只一騎佐倉城に馳せ向かった。そして、角来の八幡神社の前に差し掛かったとき、疲れ果てた馬はついに倒れて息絶えたという。正信の諫書は認められず、江戸を無断で退去した罪により所領10万石は没収された。その後佐倉惣五郎伝説に付合して人々は怨霊の祟りによって正信は発狂しこの挙に及んだものであると噂した。
それから86年経った延享3年、正信の弟正俊を初祖とする第五代堀田相模守正亮(後に11万石老中筆頭となる)は山形から佐倉に転封となった。その8月初めて佐倉城に着任した日だった。角来の八幡神社の前に差し掛かると一人の老人が現れ、正亮の馬の手綱を持って大手門まで案内した。ところが、家臣の目にはその老人の姿は見えなかったのである。不審に思った正亮は家臣の者達に色々と尋ねたところ、一人の老臣が「それは正しく惣五郎の亡霊であろう」と答えた。正亮は「万々この理なき事なり」と笑っていたが宝暦年間に惣五郎を将門山の口之明神に祀り毎年2月と8月に盛大な祭典を行なった。この角来馬頭観音も、そのとき倒れた馬の供養の為、正亮が建立したものと伝えられている。
(佐倉市文化財審議会委員長 青柳嘉忠)
担当 菅 勇二