山門と両側の仁王尊(貼付け)   本堂は2012年に修理
 
 松虫姫伝説
 松虫姫は奈良時代に東大寺大仏を造立した聖武天皇の第三皇女(不破内親王)でした。姫は年頃になって不治の病にかかってしまいました。あらゆる手をつくしましたが、病は重くなるばかりで聖武天皇も諦めかけていたある日のこと、松虫姫は不思議な夢を見ました。薬師如来が現れ「病を治したいならば下総の国萩原郷で祀られている薬師仏に一心に祈るべし」と告げられました。姫のお供として選ばれたのが聖武天皇の信任厚い僧の行基と姫の乳母である杉自や数名のお付きの者、それに牛二頭でした。松虫姫は牛に乗り、一行は難儀の末、ようやく下総の国までたどり着きましたが、あと一歩のところで嵐のために萩原郷までの舟を出すことができませんでした。そこで一緒に来た行基が、一心込めて(水の神様でもある)弁財天に祈りました。すると嵐が静まり、不思議なことに沼底の土が浮き上がって水上に一筋の道ができて一行は対岸まで行くことができました。以来そこの地名を「土浮」と呼ぶようになったと言われています

 都を離れて見知らぬ坂東の貧しい村里に来た姫は、気を取り直して薬師堂の傍らに草庵を結び、朝夕一心に祈り続けました。その一方で姫は乳母の杉自に命じて、里の人々に読み書きや裁縫、養蚕等を教え、さら孤児の救済や療養う施設などを作りました。それから数年経ち、姫の枕元に再び薬師如来が現れ、病がすでに全快していること、そして都へ帰る日が来たことを告げたとされています。松虫姫は乳母の杉自をこの地に残し、引き続き都の文化を伝えることにし、名残を惜しむ村人たちに見送られて都へ帰って行きました。このとき都から姫を乗せてきた一頭の年老いた牛は、都への道中の足手まといになると思い、自ら近くの池に身を沈めたといわれています。その池は「牛むぐりの池」」と呼ばれましたが、今も印旛日本医大駅の近くにある松虫姫公園の調整池として残っています。また、乳母の杉自を偲んで、後々に村人たちが作ったのが多数の庚申塔に囲まれた「杉自塚」です。

 さて病の癒えた松虫姫をみて聖武天皇はことのほか喜ばれて、行基に命じて七仏薬師如来を祀った寺院をこの地に建立させ、松虫寺と名づけたといわれています。国の指定文化財である御本尊の七仏薬師如来は33年毎の御開帳の秘仏で、最近では2012年11月に開帳されました。松虫寺はでは多くの伝説に恵まれており、この他山門のそばには松虫姫が持っていた杖が根付いたという「お杖の銀杏」が残っています。また姫が都で亡くなった時に分骨して埋葬したといわれる「松虫姫御廟」が薬師堂の裏にあります。
 聖武天皇には松虫姫を含む三人の皇女がおり、実際にはその三姉妹は政争に巻き込まれて数奇な運命をたどったと言われます。
 
 
    
 七仏薬師如来(重要文化財)
 坐像を中心に立像が三躯ずつ左右に並んでいます。像の高さは中尊坐像が54.3cm、立像はいずれも38cmの小像群です。肌は素地のままでわずかに朱色でくちびるを、墨で眉や黒目を描いている。材質はいずれもカヤ材で一木造です。彫眼で、各像とも肉取りが厚く、えりを広くゆったりと刻み、立像の両脚にそうY字型のひだはゆとりがあり、小像ながらも量感を出しています。平安時代末期のものと考えられています。
 御開帳は33年に一度の秘仏で、最近では2012年11月に開帳が行われ、それに合わせて薬師堂の本格修理もとり行われました。
                 担当 壷阪一弘